震災の日、わたしは、まだ東京で銀行員をしていて、
外回り(営業)後に、支店に戻る途中でした。
そういえば、支店最寄りの駅で、踏切が開くのを待っていたっけ。
当時、かなり体調を崩していて、
常にめまいがしているような状況だったので、
すぐに地震と気づかずに、
ついに、めまいで倒れるんだと思った。
でも、周りの様子もおかしくって、
大きな地震がきたことに気づいたのでした。
その時点では、
震源地も、どのような規模の地震なのかもわからない状況だったので、
本当に本当に不謹慎ではあるけれど、
台風で学校が休める!と、気分が高揚する子どもみたいに、
異常な事態に、妙にテンションが上がっていたのを覚えています。
そのとき、わたしは、
10日後に披露宴を控えていました。
日に日に状況が悪化していくような毎日。
なかなか通常運転に戻らない公共交通機関に、
休業、もしくは、営業時間を短縮するお店たち、
そして、原発の問題まで発生する始末。
銀行は休めるどころではなく、
システムがちゃんと作動するかを慎重にチェックしてから開店しなくてはいけないため、
確か、いつもよりも2時間ほど早く通勤しなくてはなりませんでした。
そんな中、
披露宴に参列してくれる予定の友人たちから、
「親に東京に行くのを心配されているのだけど、どうかな?」
「妊娠中だから、原発の問題が落ち着くまで地方に行くことになって、出席が難しくなってしまった」
など、続々と連絡をもらう。
披露宴の準備のために予約していたお店も、
休業や時間短縮で、すべて行くことができない。
誰も何も悪くないし、
被害に遭われた方々のことを考えると、
本当に小さなことかもしれないけれど、
わたしは、 この震災とまったく向き合うことができませんでした。
結局、両親と話し合い、披露宴は半年延期することを決め、
当初予定していた披露宴の日の翌日(2011年3月22日)から計画していた新婚旅行に、
逃げるように向かったのでした。
当時、日本にいたら、きっと精神的にまいってしまっていたと思う…
そう思うと、当時の上司や一緒に働いていたみなさまには、感謝してもしきれません…
今日、改めて当時のことを思い返してみて、
震災が直接的に影響しているわけではないかもしれないけれど、
あの頃を契機に、自分自身の環境は大きく変化したのだなと感じた。
結構、そういった方も多いのではないかと思います。
わたしは、その後、銀行を辞めて、
カメラマンになって、
今では、香港に住み、仕事をしている。
今でも、正直、3.11と向き合うことはできていない気がする。
どこかでブロックしてしまう。
でも、それでいいのかもしれないと思う自分もいます。
誰の言葉なのかはわからないのだけど、
こんな言葉があります。
「あなたが無駄に過ごした”今日”は、
昨日死んだ誰かが、死ぬほど生きたかった”明日”」
だから、直接向き合うのが苦しいわたしは、
めいっぱいの幸せを感じながら、
大切に大切に今日を生きるのです。
震災で亡くなられた方のご冥福と、
被災地のより早い復興を心からお祈りするとともに、
当時、わたしたちの披露宴の延期を快く受け入れ、
参列してくださったみなさまに、感謝の気持ちを込めて。