自分の中に、自分自身を俯瞰するもう一つの目線ができたとき、

わたしは、結構前から上手くいってきたんじゃないかと思った。

 

どういうことかというと、簡単に理想の世界を手に入れてきた。

そこに、特に、苦労はなかったということ。

 

努力はしているし、一生懸命がんばってもいるけれど、

そこにごりごりとした苦しさはない。

 

いつの間にか、理想の人生の中にいる。

これをどんどん繰り返して、拡大してゆく。

 

 

だから、端から見ると、のほほんとしているように見えるんだと思う。

(のほほんとしているのは事実なのかもしれないけど、笑。)

 

 

ずーーーっとずーーーっと今だに、父から、

 

「もっと苦労しなくちゃいけない」

「もっと大変さを味わわないといけない」

 

そう言われる。

 

 

義務教育の中でも、散々耳にしてきた言葉のような気がする。

 

「がんばらないと、立派な人間になれない」

「苦労した人のみが、成功を掴み取る」

 

こんな言葉たち。

 

 

もちろん間違っているとは思わない。

 

 

でも、わたしは、ただただ鵜呑みにし過ぎて、

 

「簡単に上手くいってはいけない」

「苦しさを味わわずに、幸せになってはいけない」

 

こんな言葉に書き換えてしまっていた、汗。

 

 

何の問題もない、何なら望んでいた日常を過ごしていても、

体感的には苦労もなく、簡単に手に入れてしまったものだから、

それじゃあダメだと思っていたんです。

 

 

だから、ずっと自分のことを責めてた。

 

「あんたは、努力が足りない」

「もっと苦労しなくちゃいけない」

「ずっとこんな上手くいくわけない」

 

頭の中で響きまくってたなぁ。

 

 

顔ごはんシリーズ☺︎

 

 

現状に問題がないのに、

敢えてする「苦労」って何なんだろう?

 

 

そう考えて気づいたのは、「努力」にも種類があるということ。

 

 

ざっくり分けると…

 

好みの世界でする「努力」と、

好みでない世界でする「努力」。

 

 

これまで自分が経験してきたことに照らし合わせてみると…

 

好みの世界でする努力は、苦労と感じない!

だけど、好みでない世界でする努力は、苦しいんです!

 

 

で、後者の状態だけを「努力」と定義していたから、

わたしの中で、「努力=苦労」になってしまっていたんですね。

 

 

好みの世界をどんどん創造していく努力、

人生をよりよくしていくための努力、

わたしは、もう昔っから、自然とこういう努力は続けてきた。

 

それを、自分で認めればよかっただけの話だと気づきました。

周りに認めてもらう必要なんてなくて、自分で認められれば、それでOK。

 

 

可愛く仕上がると、すごく嬉しい♡

 

 

好みでない世界のためになんて、1mmも努力したくないって話です。

 

 

例えば、わたしは、いつだって余裕をもっていたい。

それは、お金にも、時間にも、心にも。

 

 

それが、わたしの理想の世界です!

 

 

だから、実働はほとんどないけれど、保育園の空きがあるなら入れたいし、

「龍ちゃん(息子)、連れてきてもいいよ〜」と、

両親が言ってくれるなら、その言葉に素直に甘えたい。

 

もし保育園にも両親にも任せることができないのなら、

ヘルパーさんだって、積極的に活用したい。

 

 

それは、子育てが嫌!とか、息子といるのが嫌!ってことではないんです。

 

どんなに大好きであっても、あまりに一緒にい過ぎると、

自分の心の余裕がなくなっていくのがわかるから。

 

息子と一緒にいながら、あくせくこなす方に努力をするんじゃなくて、

自分が余裕をもてると感じられる方向に努力をする。

 

こうすることで、より一層、息子への愛おしさが増したし、

これこそが、わたしの理想の子育てだって思うから。

 

 

それが、いくら育児放棄に見えようと、

楽をしているように捉えられようと、大した問題じゃないんです。

 

子どもとべったり一緒にいたい人は、そうしたらいいし、

そうでないなら、その望む方向へと工夫していくだけ。

 

みんな、理想が同じなわけじゃない。

だから、それぞれが、それぞれの理想に対してのみ努力すればいい。

 

 

「努力」は、好みの世界でしかしちゃいけない!

 

 

しっかりと好みの世界(望み)をセットするから、努力が苦労ではなくなる。

風のような軽い努力で、大きく!本当に大きく!その世界を拡大してゆける。

 

 

地球に遊びに来たつもりで生きてみればいいじゃない?