誕生日があったので、久しぶりに海外に行ってきました。
このブログでも再三書いているとおり、
わたしの両親は大の子ども好きで、
目に入れても痛くないとはこのことか!と思うくらい、
息子(彼らにとっては孫)のことを可愛がってくれます。
旅行の度に言われるのは、
「龍ちゃん(息子)は置いていけば〜」
という言葉(本当、毎回言われる)。
もちろん大人だけでゆっくりしたいときもあるから、
両親のこの言葉にたくさん救われてきたし、
実は、今回もギリギリまで迷っていました。
でも、息子と一緒に行くと決めた。
すると、今度は、
「どうせ連れていっても、旅行のことは覚えてないよ〜」
「もっとかたちに残るものにお金をかけてあげればいいのに〜」
と言ってきた、笑。
たぶん孫と一緒にいたいから言っただけのことだと思うけど、
この言葉を受けて、思い出したことがありました。
そういえば、わたし、本気でこう信じていたわ!ってこと。
「記憶に残らないと意味がない」
「かたちに残らないと価値がない」
昔は、旅行にお金をかけるなんて信じられなかった。
「何も残らない」
「それなら、洋服や靴やバッグにお金をかけたい」
半ば本気でそう思っていたし。
そんなわたしも、6年前のカンボジアをきっかけに旅行にハマるんだけど、
その後も結局、SNSで発信することで他人の記憶に残ること、つまり、
すごい!とか、羨ましい!と思われることに価値を置いていたなぁと思う。
いや、それが本望なのなら、何ら問題はないんだけど…
ってか、話が少し逸れたけど…
ここ数年かなぁ、自分が感じ味わっていることにこそ、
絶対的な価値があると気づいてから、捉え方が大きく変わりました。
空飛ぶ、龍馬くん!!!
肉体的な記憶には残らなくても、必ず細胞に刻み込まれる何かがある。
覚えてはいないが、必ず憶えている。
それは、かたちはないけれど、
肉体が朽ち果ててもずっとずっと永遠に残り続けるもの。
ほら、生まれながらにして自然と上手くできることとか、
なんか懐かしい感覚とかって、誰の中にもあるじゃない?
あれって、やっぱり細胞が憶えているってことなんだと思うの。
覚えているから、かたちに残るからいいわけじゃない。
憶えている、ちゃんと目に見えないところで残っている。
わたしは、それを信じたい。
そして、大切にしたい。
たくさんお祝いしてもらった♡
すごく幸せ♡
今回、このブログを書くにあたって、念のため、
「覚える」と「憶える」の違いについて調べていたんだけど、
「憶」という字は、「心臓」と「音」を表す象形から成っているのだそう。
これは「言葉になる前の思い」を意味していて、
そこから「おもう」「記憶する」を表す言葉として成り立ったんだって。
そっかぁ、「言葉になる前の思い」かぁ。
今回の旅行のこと、息子は覚えていないかもしれない。
だけど、彼の中に、確実に刻まれた何かがあると信じています。
行きの機内で、初めて「ひこーき」と言った。
帰りの空港で、「ひこーき、おっきいねぇ」と言った。
わたしの中にも、深い感動が刻まれました。
具体的な出来事は、時と共に忘れていっちゃうかもしれないけど、
この胸が震えるかんじは、きっとずっと憶えている。