土曜日、YouTubeを更新しました🎬
実は、この動画で話したことは、当初ブロブにしようと思っていた内容なんです。
長々と書いたものの、最後の最後の〆がどーーーしても浮かばず、寝かせておりました。
編集履歴を見ると書き始めたのが1月8日(水)だから、1ヵ月以上も寝かせていたのね。
散々練りに練り寝かせに寝かせた挙句、
「しゃべっちゃった方が早いわ!」となって動画にしたのでした、笑。
でもね、せっかく長々書いた文章が残っているので、
動画とはちょっと違った視点からブログにも書いてみることにする✍🏻
カブッている部分も大いにあるけれど、
ぜひ掻い摘みながらでも読んでみていただけると嬉しいです。
動画も見てね〜。
この年末年始、命について思いを巡らすことが本当に多かった。
わたし自身、一歩間違えていたら死んでいたであろう事故を起こして、
「人って、簡単に死んじゃうのかも?!」と身をもって感じた。
年越しを迎える直前に起こったチェジュ航空の事故では、
乗員・乗客181名のうち乗員2名を除く179名が死亡した。
チェジュ航空は静岡空港からも飛んでおり、この7月に乗ったばかりだった。
そして、つい先日の渡韓の際にもお世話になった✈️
年末年始で読み返した、西 加奈子さんの『i(アイ)』という小説もそう。
実際の世界で起こった事件や事故を背景に話が展開されていくということもあって、
生と死についてものすごく考えさせられたし、
何だか言葉にならない複雑な思いでいっぱいになった。
そして、ロサンゼルスの大規模火災。
実は、祖父が日系米国人だったので、親戚の多くはアメリカにいる。
まさにロサンゼルスに住んでいる家族もいて気が気じゃなかった。
親戚みんなの無事はすぐに確認できたものの、
家から火事の様子が見えるとか、同僚や友達の家が燃えてしまったなんて話も聞いた。
実際に訪れたことのある大好きな美術館にも火の手が迫っているというニュースに、
「全然あり得るな」って思った。
それは、「自分が死ぬのも全然あり得る」ってこと。
「自分だったかもしれない」と思ったってこと。
J・ポール・ゲティ美術館を訪れたときのブログ🎨
大規模火災の中でも無事でいてくれたみたい、涙。
年明けに見た、YouTuber・関根 りささんの動画でもそんな思いがした。
表皮水疱症を持って生まれた息子さんが、
2歳7ヵ月12日で人生の幕を閉じたというご報告の動画。
同じく息子がいる身として、かなり胸にくるものがあったし、
症状や程度は違えど、わたし自身も皮膚の病気で通常の生活が難しい時期があったから、
親という立場からも、本人という立場からも身に迫るものがあった。
語弊があったら恐縮だけど、
「もしかしたらわたしだったかもしれない」
「もしかしたら我が子だったかもしれない」
そんな思いがとまらなかった。
「明日は誰にも約束されてない」
これまでもわかっていた、わかっていたことだけど、
2024年末から2025年初めにかけて立て続けに起こった出来事を通して、
改めてこう強く感じました。
美容に興味の薄いわたしが、美容系YouTuberであるりささんのチャンネルに出合えたのは、
息子さんの病気を公表された動画がきっかけでした(お子ぴ、本当にありがとう♡)。
この動画の中で、りささんが言うんです。
「明日おはようが言えるのは、とても特別なことです」
そうおっしゃるんですよ。
本当にそうだって思う。
自分が、そして、大切な人たちが生きているって本当に奇跡的なこと。
奇跡の連続で「今」がある。
ただ、こういった言葉を受け取る度に、深く納得する自分がいる一方で、
「もし余命宣告を受けていても、今と同じことをしているか?」
という問いが湧いて、すごく苦しくなる。
これは、スティーブ・ジョブズのスピーチや、
『最後だとわかっていたなら』という詩からも感じてきたこと。
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あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら 一言だけでもいい・・・
「あなたを愛してる」と わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで 今日で全てが終わるのだとしたら
わたしは 今日 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは 今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日 あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だということを そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を 伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから
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(9.11同時多発テロ後に世界中に拡散された詩です。ご存知の方も多いかな)
わたしは、今、息子と二人で暮らしています。
パートナーは、基本海外にいる。
もしも自分かパートナーか息子、この誰かの死が近いとわかったなら、
わたしはきっとここになんていない。
すぐにパートナーのところへ飛んでいって、家族三人で過ごす。
他にも、今のわたしの生活の中に
死が迫っていたらやっていないであろうことがいくつもある。
だから、
「もし今日が最後の日なら、本当にそれをするだろうか?」
この問いが苦しいんです。
だって、「ノー」と答える場面がたくさんある。
明日が誰にも約束されてないことはわかっているけど、
それでもやっぱり今日が最後だなんて思えない。
わたしは、正直、明日も明後日も明々後日もやってくると思ってる。
光と影が可愛くて、たくさん写真撮っちゃった。
ソウル新羅ホテルだよん。
ここで一度立ち止まって、漠然と湧く苦しさにじっと浸かってみたんです。
そうすると見えてくるんですよ、その苦しさの出所が。
わたしは、常に死が迫ったときのように必死で生きなきゃ!って思ってた。
死が迫ったときと、そうでないときとで生き方を変えちゃいけない!って思ってた。
そして、今まさにそんなふうに生きてなんかいない自分に対して、
「ダメなやつ」とか「逃げている」とか思ってたんだわ。
だから、苦しかったんだ。
あの問いを耳にする度に、そんな自分を指摘されているようで嫌だったんだ。
ここに気づいたとき、
もしかしたら「ダメ」とか「逃げ」って充てなくてもいいのかもしれない?!
と思えてきました。
「もしかしたらダメじゃないのかもしれない」
「もしかしたら逃げじゃないのかもしれない」
いや、
「ダメならダメでいいのかもしれない」
「逃げなら逃げでいいのかもしれない」
もちろん明日が誰にも約束されてないというのは紛れもない事実。
その上で、それでも明日も明後日も明々後日も一週間後も一ヵ月後も一年後も、
きっと生きていて、元気な姿でまた会えるって思えることが嬉しい。
わたしは、そう思える喜びに包まれて生きていたい。
ここにたどり着いてから、あの苦しさを感じることはなくなった。
至福の中にいられるようになった。
ホテルの部屋からの景色。
痛いくらいに寒かったけど、滞在中ずっと晴れててくれて救われた。
わたしが帰国した翌日はこんなふうな雪景色だったらしい。
現地に残った彼が送ってくれた。
有名な人や、憧れの人の言うことを鵜呑みにするのも大切だけど、
「鵜呑みのしどころ」と「疑いどころ」があるなって思った。
その発言自体を疑う必要はないけれど、
感じたことを無視したまま自分の中に取り入れないって大事。
一旦鵜呑みにしてみる。
そこで感じたことを見てみる。
そこにネガティブな感情があったとき、自分の取り入れ方を疑ってみる。
そうすると、真理にたどり着くってかんじかな。
わたし、Mrs. GREEN APPLEの『soranji』という曲が好きで、
その中でもこの部分に強く心を惹かれていたんですよね。
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まだ伝えてないよ 今日の分の「大好き」を
未来でも変わらず届けられますように
この世が終わるその日に明日の予定を立てよう
そうやって生きて生きてみよう
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後半の歌詞の意味なんかよくわからないままだったけど、
今でもご本人がどういう意味を込めて書いたかなんてわかりっこないんだけど、
今日が最後かもしれない。
明日は約束されてない。
その中で、それでも未来を描ける喜びに感謝して生きていきたい。
そんなふうに思い至ったときに、この歌詞がふっと頭をよぎったから、
わたしの中では、そういう意味ってことになっている。
かなーーーり長いブログになっちゃった。
時にはどうにかなりそうなほど苦しくなることも、
胸が引き裂かれるような辛さを味わうこともあるけれど、
それでも人生っていいね。
そうやって生きて生きてみよう。
なんてね、笑。