前回の続きです!
父を「変えてやろう!」「正してやろう!」としていたとき、
わたしは、自分にもそのままでいることを許せていなかったんだと思う。
やっぱり放つものは、相手ではなく、必ず自分に作用する。
(これについては、また別途ブログ書きます!)
相手を変えてやろうとしているときのわたしの胸の内は、
「自分の正しさや、素晴らしさを認めさせたい!」
ただこれだけに過ぎなかった。
相手のことなんて一切考えてない!
1ミリも愛がない!
自分で自分を認められていたら、相手を変える必要なんてないんだよね。
そのままの自分を許していないから、相手を変えることで、
自分が正しい、自分こそが素晴らしいっていう証拠が欲しい。
そんなの、全然自分を認められてないよね。
父に対して、「そのまんまでいいや」と心の底から思えたとき、
わたしは、本当の意味で、自分にもそのままでいることを許せました。
もちろん父がどう思っているかについては知る由もないけれど、
わたしの中で、「お互い、そのまんまでいい」と思えているからこそ、
変にぶつかる必要もなくなったのでしょう。
そして、この一連の流れの中で、強く感じたことがあります。
それは、
「全ては、わたしがよりよい人生を歩むために起こっている」
ということ。
クリスマスイブに、トナカイと御礼参りに行ってきた♡
以前は、「よい人生」って、心地よいことばかりが続いて、
不快な出来事が起こらないような人生のことを思い浮かべてた。
誰がどう見ても、成功していて、かつ、幸せそうな人生のこと。
だから、以前のわたしにとっては、実父と衝突してばかりいるなんて、
よい人生とはかけ離れて過ぎていて、受け入れ難いものでした。
だけど、その流れが変わったのは、
「起こった出来事(目に見える部分)で
よい人生かどうかが決まるわけじゃない」
と身をもって知ったことでした。
▶︎ ブログ『「ここにいない、わたし」を生きないこと。』
じゃあ、「よい人生」とは何か?というと、
その起こった出来事を糧にして、
「精神的な広がり」
「意識の拡大」
を感じられること(目に見えない部分)なんだと思う。
それは、
物事をポジティブに捉えようとか、
自分の中に原因を見つけようとか、
相手の嫌だと感じる部分を反面教師にしようとか、
喧嘩を買わなくていいくらい、精神的に大人になろうとか、
そういう表面的な外側からのアプローチではなくて、
起こった出来事に対する反応(感情)を
自分を知るためだけに使おう!
ってこと。
今回の一件で、怒りのままに父にぶつかったり、
渦巻く感情をそのまま外に放ったりするのではなく、
ただ淡々と自分に向けて、本当の自分を知るためだけに使った。
だからこそ、好みじゃない在り方をしている自分に気づき、
好みの在り方へと改めることができた。
「よりにもよって、なんでこんなに合わない人が実の父なんだろう…」
「これが他人なら、関わらなくて済むのに…」
これまでに、もう何度も!何度も!何度も!そう思ってきたけれど、
簡単に縁を切ることのできない、いや、縁を切りたくない人だからこそ、
わたしはここまで自分と向き合い、器を広げることができたんだと思う。
気が合って、考え方も好みも一緒で、
何の落ち度もないような素晴らしい人が親なのなら、
もちろんそれがいいに越したことはないけれど、
「意識の拡大」という意味で、父が父であってくれて本当によかった。
今、胸を張って、よい人生を歩んでいると言えます。
そして、これから先もずっと、わたしはよりよい人生を歩んでいく。