【言葉と本質】シリーズの続きがあるんだけど、
ちょっとその前に、昨日、わたしが感じたことを。
毎日、息子とリンクコーデをしていて、
大抵、前日の夜に何を着るか決めておきます。
昨日は半袖を用意していたんだけど、朝起きてみたら、ちょっと肌寒い。
一昨日も1〜2ヵ月くらい戻ったような気温だったし、
旅行前なので、息子に風邪引かせたくないなぁとも思って、
急遽、息子は長袖Tシャツ、わたしは半袖ニットを着ることにしました。
なーのーにーーー!
出発する頃になって、めっちゃ太陽出てきたーーー!
でも、着替えるのもめんどくさくて、そのまま出掛けました…
もちろん暑い…
そして、ものすんんんごーーーく心地悪い!!!
暑いっていう肉体的な心地悪さもあるんだけど、
それ以上に、わたしを心地悪くしたのは、
「6月も下旬なのに、こんな格好してきてるって思われる」
「ちゃんと天気予報見てますかー?って思われる」
「子どもにこんな厚着させて!っておーもーわーれーるーーー」
こんな自分の中をエンドレスに流れ始める言葉たち。
めっちゃ言い訳したくなってくるんです。
「昨日寒かったんで、今日も寒いと思ってぇ」
「だから、長袖着せてるんですよぉ」
「半袖用意していたんですけどねぇ」
「朝方は寒かったですもんねぇ」
「出発する頃になって晴れてきちゃってぇ」
「天気予報は見たけど、外れることもあると思ってぇ」
先生たちに言って回りたくなる。
ちなみに、昨日の格好はこれでした!
息子が持っているのは、ばぁばがくれた歯医者さんのカレンダー。
息子は、今、口の中に興味があります。
以前だったら、このまんま言い訳して回るか、
逆に、こんな小さなこと気にしてません風を装うかしてた。
(めっちゃ気にしてるのに、笑。)
だけど、今は、こんな内側を流れる声を
真っ直ぐに聞くことができる自分を嬉しく思う。
人って、「恥ずかしい」という気持ちが一番堪え難いんじゃないかな。
わたし自身の経験から言っても、恥ずかしい自分が一番直視し難いし、
見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしてしまう。
でも、ほんのちょっと勇気をもって、えいっ!て見てしまうと、
いや、そうやってちゃんと真っ直ぐに自分を見てあげるからこそ、
本質に触れることができる。
「全ての感情は対等」
これが真理なのに、わたしたちは、
「やれ、この感情は味わいたくない」だの、
「この感情はいっぱい味わわせて」だのやっている。
別に、そうする自由すら与えられているという大前提はあるものの、
こういう真理に背く(=本質的ではない)姿勢は、
必ず自分の中に「詰まり」を生じさせる。
だって、その場では、
「よしっ!上手く言い訳したった!」とか、
「やっぱりわたしって、こんな小さなこと気にしない女!」とか、
(何度も言うけど、めっちゃ気にしてるのにですよ、笑。)
何とか(表面的には)自分を納得させられたとしても、
ずっと付きまとう心地の悪さがあるじゃないですか。
その「詰まり」が、人生そのものの「詰まり」。
どんな感情を味わったって大丈夫!
不快な気持ちが人生を詰まらせるんじゃなくて、
その気持ちを真っ直ぐに見ないから、人生詰むの。
だから、自分の中を流れるどんな声にも耳を塞がないで!
▶︎ ブログ『ただ安心して、不安を感じていたい』
▶︎ ブログ『「そのまんまでいさせてあげる」「放っておいてあげる」の威力。』
▶︎ ブログ『「全ての感情は対等」という目線をもってみる。【質問への回答】』
(このあたりのブログにも同じようなことを書いているので、よかったら覗いてみてくださーい♪)
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