度々このブログに登場し、講座を開催するきっかけにもなった、
わたしのおばあちゃん(2022年の2月に亡くなりました)。
おばあちゃんは、外出しない日も、毎日欠かさずお化粧をしていました。
本当に常に身なりをきちんとしている人だった。
どんな流れでだったかは忘れてしまったけれど、
生前におばあちゃんがふとこんなことを言っていたことがある。
「おじいちゃんやみんな(家族)の知り合いにばったり会ったとき、
わたし(おばあちゃん)が汚い格好でいたりしたら、
恥ずかしいのは、おじいちゃんやみんなでしょ?
だから、いつも綺麗にしているのよ。」
素敵だなって思った。
そんなふうに家族のために綺麗でいてくれてるんだって。
保育園の説明会帰りに、少しお散歩。
この歳になって改めて思う、
「すんごい素敵な町で育ててもらったんだなぁ」って。
アゲハ蝶いるのわかるかな?
(あっ、昔は「このクソ田舎!」って思ってました、笑。)
ただね、このあたりのブログにも書いたけれど…
▶︎ 『みんな、人生を自分の手に取り戻さないまま死んでゆく。』
▶︎ 『祖母の最期。人生をこの手に取り戻すことの大切さ。【長期講座開催を決めた理由】』
おばあちゃんは、みんなからの反応が欲しくなってしまったんだと思うの。
それが、最初からだったのか、途中からなのかはよくわからないんだけど。
いつだったか、
「みんなのためにこれだけやっているのに、
誰もわたし(おばあちゃん)に感謝してくれない」
みたいなことを漏らしていたことがあったんだよね。
「他人の反応をゴールにする」
今回はおばあちゃんを例に挙げさせてもらったけど、
誰もが知らず知らずのうちにやっていることなんじゃないかな。
喜んで欲しくてやったことなのに、
期待したような反応がなくてがっかりするとか、
相手のためを思ってやったつもりが、
相手にそれが伝わっていなくてイラッとするとか。
母校(高校)の中庭。
わたしは、この中庭が大好きでした。
わたしは、そんなことを繰り返している自分を見たとき、
無駄に繋げない!
切り離す!
この大切さに気づきました。
いつだって、
「わたしがしたくてやった、以上」
なのだ。
「わたしがしたくやった」がゴールでいいのに、
なぜか「それに対する他人の反応」をゴールにしてしまうから、
悶々とするし、釈然としないし、苦しい。
だから、「わたしがしたこと」と「他人の反応」を繋げない。
どんどん切り離していく。
自分のしたことに嬉しい反応があったなら、
それはそれはもう素晴らしい「おまけ」のようなものだし、
期待していた反応と違ったとしても、自分がしたくてやった、
つまりは、したいことができたのだから、もうそれで「十分」なのだ。
暑っっっい中散歩したので、〆にクラフトコーラを1杯!
最高でした!
決して相手の反応に落胆しないってことではなくて、
自分の望む反応がないことをいちいち気にするくらいだったら、
その程度の「別に大してやりたくないこと」なのかもしれない。
そう気づけたなら、
▶︎ やめる
▶︎ それでも続ける
を自発的に選択できると思うんだよね。
そうするとね、相手の反応に踊らされないというか、
揺さぶられないというか、自分軸で生きられるようになる。
本当は他人からいい反応をもらいたいわけじゃない。
ちゃんと自分を生きたいだけ。
おばあちゃんが、わたしたちのためにいつも綺麗でいてくれたこと。
それはとっても素敵だなって思うし、すごく嬉しかった。
わたしも、一緒に過ごす人が心地よくいられるようなわたしで在ろう。
おばあちゃんがしてくれたように。
それは、わたしのしたいことだから。
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