昨日のブログ、こんなふうに書きました✍🏻
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「会話に入っていけなくて寂しい」なのか、
「味のわからない自分が劣等感」なのか、
「自分の意見に賛同してもらえなくて悔しい」なのか、
父の発言の大元みたいなところはよくわからないけれど、
そこをちゃんと自分自身で見ようとしてあげさえすれば、
もう少しまともな伝え方もあるでしょうに、と父を見ていて思うわけです。
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少し前にYouTubeでもお話ししたんだけど、
感情が湧くその大元(理由)を自分自身でもわかっていないケースが多過ぎるんです。
いや、正確にはわかっているんだよな(自分でも薄々は気づいてる)。
だけど、見るに堪えなくて認められていないケースが多い。
誰かの言動にイラッとした自分なんて、正直直視するのは簡単です。
でもね、なんで自分がイラッとしたかについては、本当ーーーに直視し難い。
だって、あまりに恥ずかしいから。
きまりが悪くてどうしようもないから。
そんな自分がイタくてイタくて仕方ないから。
だから、ナチュラルに目を背けてしまう。
そして、まるで最初からイラッとなんかしてませんよ〜といったかんじを装う人もいれば、
イラッとした自分を正当化することに一生懸命になる人もいる。
母・姪っ子・甥っ子・息子と一緒にイクスピアリに行ったよ〜。
ディズニーリゾートラインにも乗りました!可愛い♡
今回の父の場合は後者だろう。
わたしと母の会話になんかイラッときた。
それはそれでいいんだけど、その感情の大元に立ち返ることなく、怒りのままに放つから、
「食べ物も同じ。お腹が膨れるんだからおーなーじ」
「そんなことに手間暇かけるなら、もっと他に大切なことがあるだろ!」
こんなふうに「本当に伝えたいことは何?」と聞き返したくなるような、
全く本意の伝わらない発言を繰り返すことになる。
「会話に入っていけなくて寂しい」なんて認めたら負けだ。
「味のわからない自分が劣等感」なんて認めたら負けだ。
「自分の意見に賛同してもらえなくて悔しい」なんて認めたら負けだ。
「だから、負けないために非難してやる!」って、
こんな非常にくだらないゲームをやってるんだよね。
この日は、クアアイナでランチ。
なんで開いたまま撮っちゃったんだろうと後悔、笑。
「それ、人生かけてやりたいこと?」とは思うけど、
これはこれでとても楽しいゲームだから、笑、続けたいなら続ければいいと思う。
ただ、恥ずかしくても、きまりが悪くても、イタくてイタくて仕方なくても、
こんなゲームをやっている自分に気づいて、認めて、さっさとやめて、
「本当の本当はどう生きたいか」を知り、
そこに真っ直ぐに肉体を使う。
そのときなんだよね、命の根が深くなるのは。
全てが糧となり、この命が輝きを取り戻すのは。
感じていることを認めるって、表面的な感情を認めるってことじゃあないよ。
その奥にある気持ちの方を認めるってことだよ。
恥ずかしくても、きまりが悪くても、
イタくてイタくて仕方なくても、
それは決して「負け」なんかじゃないから。
ぜひYouTubeも見てみてね〜。
それこそ、わたしがくだらないゲームにこの命を捧げそうになっていた話をしています。
やめてよかった、笑。